私は武術に關する古文書を蒐集する一方で、掛軸や書柬など、筆蹟の類いも蒐集しています。その蒐集の過程において、刊行されている圖錄や圖版の類いを閱するに、誰しもが精品と認め得るものがある一方、凡出來の品と言わざるを得ないもの、敢えて圖錄・圖版に載せる必要があったのかと首を傾げるものも見受けられます。これらに全て精品を揃えれば善いという話しではありませんが、せめてある水準を超えた品々を載せた方が、觀る者をして敬慕の念を深からしむるのではないかと愚考します。
幕末三筆の一人に數えられる市河米庵。現存する作品の數はとても多く、現代においても廣く認知されているかと思われますが、當時よほど揮毫の依賴が多かった所爲か、やゝ粗製濫造の氣味あり、後世これを見た人が米庵の評價を下げる傾向にあるのではないかと愚考しております。私は三筆の中では斷然米庵を高く評價しており、その精品を見付けては獲るように努めています。因て、その中の數品をこゝに揭げ、米庵評價の再考を促す所存です。
2024.08.31 炮術書 2024.08.26 一傳流居相許 2024.08.25 陰流兵法卯下卷 2024.08.24 姬路藩寳曆年中大手御上屋鋪繪圖面 2024.08.20 中野越南先生筆後撰集夏之類 2024.08.19 起倒流本體 2024.08.18 竹内流捕手腰廻之事 2024.08.17 天流鎗術外傳口訣 2024.08.17 天流小太刀一流之段 2024.08.16 物外不遷和尙筆書柬 2024.08.15 天道流兵法極意目錄 2024.08.12 建部昌興筆筆道祕傳 2024.08.10 これから古文書解讀を學ぶ人へ 2024.08.02 隆安函三流鐵炮書 2024.08.01 小出切一雲書柬 2024.07.31 後藤悅乘作俱利迦羅龍王圖小柄 2024.07.31 玉龍軒吉田信勝作柳生家紋小柄筓鍔緣頭 2024.07.30 澁谷流釼術奧之免許 2024.07.30 北海片猷先生筆扇面 2024.07.29 無名老翁岡本宣就筆唐詩卷 2024.07.28 無住心劍奧義書 2024.07.28 天道流印可
Written by inyoinshi
炮術書 筆者藏
表裂を見ると、どうもしっくりとこない、後から掛けた裂です。たしかに時代の古さを感じさせる裂ですが、そもそも素人が取って付けたような具合で、これならば何もしない方がマシだったかと。たまに斯ういうものを見ますが、後世の所藏者に惠まれなければ、なんともセンスを感じさせない仕樣に。
表裂は殘念でした、中身はどうでしょうか?
二色の料紙を繼いだちょっと贅澤な仕樣。卷末の方を見ると分るように、元和二年の傳授とのこと。なるほど、それより前時代に流行した書風の遺風を感じられます。たゞ、なんとなくですが、全体として田舎臭い雰囲気も感じられ、胸に引っ掛かるものがあります。
何流とは書かれていません、卷頭は奧書に書かれるような事から、吾等夢想の段・傳家の表、殘すところ無く相傳、と。そして後半は、奇怪な文脈にて、言いたいことは分るような氣はしますが、ちょっと讀み方に困ります。
この傳書のユニークな點は、各家中の人物が列擧されていることでしょうか。同流を傳授された人物たちと考えています。「秀賴樣にこれ有り」「明智殿にこれ有り」とか、大坂の陣で豐臣家が滅亡したのは、この傳書の前年ですから、書かれている內容そのものは已に風化しているわけです。とすると、あまり中央の爭いとは無緣のところで傳授されたものかとも思われつゝも、列擧されている人物について、それぞれ調べてみると、どうも裏付けがとれず、すべて創作では?という疑念が首を擡げてきます。先ほど觸れた、胸に引っ掛かるものは、全體を俯瞰した印象で、それに加えて書かれている內容もちょっとおかしいとなると...
あと、卷頭と奧書とに捺されているやゝ縱長の方印は、押印なのですが、諱の下の方印は書き印。斯ういうところも訝しいわけです。これまでに、莫大な數の傳書を見てきて、何かしっくりとこないということは、そういうことでしょう。たゞ、流儀としては確かに存在したかもしれません、箔付けのために名前を列擧したという可能性があります、分りませんけど。
今囘は、私が訝しいと思いつゝ、おもしろくもある傳書を取り上げました。
2024/08/31
一傳流居相許 筆者藏
一傳流居相の許。題簽は後貼り。表裝は御覽の通り、破れています。そして、以前取り上げた天道流兵法極意目錄と同樣に小卷。
表裝を擴げるとこのように金泥の草花文樣。その時代特有の雰圍氣があります。上等に類するもので、弓の傳書によく見られるかと。
一傳流居相、ご存じの通り、丸目主水正に始まるとされる一傳流です。
日夏彌介。『本朝武藝小傳』『兵家茶話』を著した日夏繁高の父です。これもまた天道流兵法極意目錄と同樣に下河原氏に傳授。なお、系譜の先頭=海野氏に至る系譜ついては「丸目主水正-國家彌右衞門-淺山內藏助-海野一郞右衞門」と傳えられています。
少し調べてみましたが、系譜の人物について不分明な點が多く、どうもよく分りません。たゞ、松江藩の不傳流の傳書と目錄箇條が似ています。淺山內藏助=淺山一傳一存なのかもしれませんね。
なお、系譜の年紀と宛名との所、抹消された上に書き直されていることに氣付くでしょうか。これには數通りの可能性があります。こゝでは、一先ず尤も可能性の高い再利用という線で考えましょう。
2024/08/26
陰流兵法卯下卷 筆者藏
これは、著名な武道史硏究家の方が所藏していました。緣有って私の許に。御覽の通り、そこそこ蟲に喰われています。見たところ、外から蟲が入っているので、その方が所藏されている當時は、こゝまで蟲に喰われていなかったかもしれません。古文書を損なわずに保存するというのは、簡單なようでいて實に難しいことです。私も常に古文書を點檢していますが、蟲の發生から氣付くまでに食害が進んでしまい、臍を嚙むことしばしば。
系譜を見ると、宛名は省かれています。恐らく、寫すとき、敢えて省いたのでしょう。誰のものを寫したか露見すると、ちょっと困ったことになりますからね、自分の傳授された傳書なら良いですが。系譜の人物たち、この項を書くまでに、何度か調べていましたが、ちょっと何藩の者たちか分らず途方に暮れておりました。しかし、これではいけないと思い、丹念に見ると、どうやら坂井氏以降、すべて岩國藩士であると判りました。坂井半助の名は、ご存じの方もいるでしょう。『武藝流派大事典』によれば、岩國藩傳の愛洲神陰流の系譜が載っており、柳河藩・防州藩に傳承とのこと。但し、この『陰流兵法卯下卷』の系譜と異なります。
寬文三年のところの中村源右衞門は、當時三十一歲、前年中村德左衞門(御馬廻り・三百石)の養子となっており、寬文八年その跡式を相續しました。
つまり、次の中村源右衞門はその次代ということか、もし同一人なら已に七十一歲となっています。
ちょっと系譜の書き方に謎が有って、坂井半四郞・坂井半介は同一人なのか、同一人でないとすれば、坂井半四郞は知られていない人物ですし、吉川隼人・今田隼人も同一人っぽいけど、違うような雰圍氣もあり、片方にしか諱が書かれていないから、傳授時點の名を前に記して、傳授するときの名には諱が加わっているのかとも考えられ、そうすると中村源右衞門は七十一歲の高齡なのか、無くは無い話し。どちらかといえば、同一人の名を相傳每に書いた系譜のように見ますね。そうすると年月日の割り當ても合點がいきます。
斯ういう圖法師を見ると、今でも心躍る何かゞありますね。
2024/08/25
姬路藩寳曆年中大手御上屋鋪繪圖面 筆者藏
姬路藩=酒井家に仕える上級武士(騎馬身分=上級武士という認識)三俣家が所藏していた屋鋪の圖面。今囘はこの圖面を取り上げます。一部タイトルにもある通り、寳曆のころ(1751-1764)、江戶に在った姬路藩の上屋鋪の見取圖ですね。南北が逆さまに見えています。以前にちょっと取り上げたのですが、間もなくサイトをリニューアルしたゝめ、目にした人は少ないかもしれません。かなり蟲に喰われていますが、圖面として充分に情報を保っています。とはいえ、開閉の度に料紙を損なう恐れがあるため、全てスキャンして21枚の畫像から1枚の畫像に仕立てました。さらに、圖面には屋鋪のスケールも記錄されており、手元で計算したところ、南北290m、東西201mとのこと。御城の目の前に宏大な敷地を持っていたわけです。『江戶切繪圖:御江戶大名小路繪圖』に見ると、白丸の所。
姬路藩の上屋鋪が在った土地は、『明治16年東京府武藏國麴町區大手町及神田區錦町近傍_五千分一東京圖測量原圖』に見ると、ちょうど內務省のエリアが該當します。『江戸切絵図:御江戸大名小路絵図』に見ると、松平越前守屋鋪と隣接していて、そちらは大蔵省のエリアとなりました。
『寳曆年中大手御上屋鋪繪圖面』を大まかに重ねると、黑塗りの部分です。屋鋪圖と縮尺は異なりますが、縮小するときっちりと重なります。寳曆から、屋鋪の敷地は全く變っていなかったということですね。
因みに、この『寳曆年中大手御上屋鋪繪圖面』は酒井雅樂頭の家臣三俣氏が所持したものにて、三俣氏は當時「江戶表御近習御用人兼帶歸役」を命じられ出府していました。繪圖面が寫された文化二年二月は三俣氏が歸國する一ヶ月前です。
googlの地圖に重ねると、この邊り、當時の屋鋪は若干道路に食み出しています。記載されているスケールと合わせたので、これで正しいと思いますが、合っていますか?
調べていて、ちょっと不思議な點がありまして、現代における「平將門の首塚」の場所は、寬文年間には姬路藩上屋敷の御庭であったとされています。ところが、屋鋪の位置を確かめてみると、「平將門の首塚」はどうもお隣の屋鋪の敷地內にあるのです。『明治16年東京府武藏國麴町區大手町及神田區錦町近傍_五千分一東京圖測量原圖』に見ても、「平將門の首塚」の場所は、やはり姬路藩上屋鋪の外に在ります。とすると、松平越前守屋鋪ではないかと思うのですが、どうなのでしょう?寬文當時は酒井家の敷地だったということかな?(寬文當時だと、井上相模守の敷地內にありそうですが)
こゝまで取り上げてきた酒井雅樂頭家の上屋敷、實は安政年の大地震のとき建物の多くが損壞し、且つ後ちの火事で燒失してしまいます。 姬路藩士が往時を述懷した話し(記錄)によると、この火事で大書院の柱にあった寬文騷動のときの刀キズが失われたそうです(但し本人は實見する機會を得られなかったようです)。
2024/08/24
中野越南先生筆後撰集夏之類 筆者藏
今囘取り上げるものは武道書ではありません、戰前の書家の作品です。私は、職業書家、單なる書道家の作品に對し、ほとんど關心を示さないのですが、その人物像に魅力を感じたとき、今日傳えられる所の傳記に興味を持ったとき、ふと佳いかもしれないと思って手を伸ばすことがあります。この作品は、何年前かちょっと忘れましたが、その筆蹟の美しさに心を打れて、購入しました。
タイトルにある通り、書家中野越南の書です。この人物は、獨學で古筆を硏究し、その書法の再現度が極めて高く、書壇にも屬さないことから、孤高の書家と云われているようです。今のところ、ネットで調べた淺はかな知識しか無いため、今後何か越南に關する資料があれば讀もうと思います。何か該当する本はあるでしょうか?
私は、今のところ和樣の方面は全くと言って良いほど疎く、この越南の書から技倆やセンスといったものを十二分に汲み取れてはいませんが、本人の硏鑽した技法が後世まで遺るというのは好いですね。あやふやなものではなく、紙に落ちた墨は歷然として殘っており、これを見た人がどのように情報を汲み取るのか、觀る者もまた觀る眼を養うために硏鑽を積む必要がありそうです。
話しは打って變って、先日からLang&Heyneの時計が慾しくて、しばしば唸っています。特に富貴な身ではありませんから、この時計を買ったら、一體幾つ卷物を買えるんだと、思い止まりつゝ、自制の日々。しかし、一度しか無い人生を我慢丈けで過すのもどうか、と肯定派の意見もあり。
卷末の方に花押があります。長尺につき割愛。
2024/08/20
起倒流本體 筆者藏
畫像で傳わるでしょうか、この仕立の良さ。裂地や紐、軸先に至るまで、普通の卷子とは異なります。裂地は何織というのか專門的なことは分りませんが、絹をキメ細かく密に織り込んで文樣を表現しており、この爲だけに織られたのではないかと思われるほど。手に持ったとき、やゝずっしりとした重みを感じます。贔屓目かもしれませんが...
表裂の裏面=見返しは金地。質感も充分。そして展くと、どうですか、天の川を髣髴とさせるこの金砂子の輝き。天地は罫引で隔して金雲風。
宛名は「防長侍従殿」と書かれています。察しの良い方は、直ぐ気付くと思います、長州藩七代藩主毛利重就侯ですね。料紙や表裝の質の高さは、この爲です。
差出人の鈴木淸兵衞といえば、眞っ先にあの鈴木淸兵衞を思い出します。しかし、この人物は「鈴木淸兵衞藤原員逸」、邦敎ではありません、どうもよく分りませんね、あの鈴木家は邦敎-邦通-好邦とつゞき、通稱の淸兵衞を蹈襲する。けれども、この傳書の「員逸」は當て嵌まらない。長州藩主に指南出來るほどの起倒流の師範で、鈴木淸兵衞と來れば、ほかの家は考えづらいのですが、諱を變える以前の名乘りでしょうか?もう少し史料が欲しいところです。
丹波篠山藩にも起倒流師範の鈴木家がありまして(こちらは瀧野家直傳の)、そちらの史料は比較的揃っているので調べてみましたが、全然別でした。
話しは飛びますが、その鈴木家の起倒流系圖を見ていると、大鹽平八郞の名がありました。起倒流を習っていたのですね。大鹽平八郞について、ほかに調べたところ、劒術は東軍新當流を習っていました。恐らく、未だ世間に知られていないかもしれません。鎗術は、相蘇一弘氏の著書『大鹽平八郞書翰の硏究』に收錄された書柬の文面に出てきます、佐分利流鎗術です。炮術は中島流。算術は以前に史料を見掛けたのですが、何流か記憶せず(史料を探せば出てくると思います)。
卷末には何も書かれていませんが、このような料紙です。餘りは截斷してしまう場合も有りますが、これは特別故かそのまゝです。
2024/08/19
竹内流捕手腰廻之事 筆者藏
この傳書を取り上げる日が、とうとうやってきました。已にサイトの方では、昔から揭載してありますが、改めてそれにまつわる話しを出來れば良いかなと思います。
卷物を開かなくても、この外觀だけでそこそこ時代があると分るでしょうか?江戶時代前期はあるという見方は固いと思います。
表裝は失われていて、手に持つと輕く、とても簡素な印象です。
竹內流において最も有名な傳書。江戶時代全期を通して、この內容を蹈襲していたゝめ、見たことがあるという人も多い筈。推測を言うと、二代目久勝のとき傳授された傳書は二卷あり、これはその一つ。三代久吉のとき、傳書の種類が大幅に增補されたのかな、と。
奧書に書かれていることは、皆さん已にご存じの通り、竹內流の起りとそれらを殘さず相傳するとのこと。
料紙の繼目は取れたまゝにしています。手を加えない、文化財保存の基本です。敢えて繼ぎ直さず、このまゝ保存した方が、後世のために善いでしょう。
取扱いに困ったときは、現狀維持を優先。そのまゝでは劣化・破損の恐れがあるときは、專門家に任せます。
小早川家の家臣松野重元に傳授された二代竹内久勝の傳書。同流同種の傳書の内、確認されているものでは現存最古。
この傳書は、そもそも松野家の篋中に眠っていたもので、その子孫は何藩・何家に仕えたか定かでありませんが、その後裔は、明治時代美作國久米南條郡に住していたと分っています。ほかに炮術書や釼術書、旗指物や鞭の類いも保管されていました。それなりに手掛かりはあったものゝ、松野重元以降の足跡を詳らかに出来なかった點、殘念です。
2024/08/18
天流鎗術外傳口訣 筆者藏
ある日、數卷の卷物がセットで賣られているのを見付けました。流派や時代など取り留めのない組み合わせで、なぜこれがセットで賣られているのかと訝しく思い、一卷づゝ見たところ、中にこの『天流鎗術外傳口訣』一卷が在ったのです。大體、賣る人は流派とか書かれていることに興味無いですからね。
普通の傳書に用いられるような厚手の料紙ではなく、薄手の料紙であり簡易な表裝、紙表紙は已に失われてしまったようです。奧書などは無く、冩という線も充分考えられますが、師範家の文書に斯ういった文書(よくある案文ではなく)を見かけますので、あながち冩とも決められません。
小松一卜齋に學んだ月岡一露齋の一木天流です。この指差したところには、同流の「齋號」の扱いが記されています。たまにそういう記述を見かけますが、全體としては稀であり面白いですね。齋號は、先生が門弟を賞美して付けるものであって、自分勝手に勇ましい號を名乗っているわけではありませんよ、と。今人の感覺では分りにくいかもしれませんが、自分で齋號を名乗るというのは、ちょっと恥ずかしい行爲です。誰かに付けてもらうものであり、自分で名乗るものではないというのが、常識。若し、自分勝手に齋號を名乘っているのだとすれば、よほど自尊心が强いのだな、と。
これは、「齋號」に限った話ではなく、江戶時代(明治時代に及ぶ)の武士や庄屋さんなどの古文書の中に、「諱」や「花押」を付けてもらった文書がありますね。當時は學識のある人や、そういった專門家に依賴していました(例外はあると思いますが)。
*文中の「不撓齋」は富永不撓齋。
小松一木齋や月岡一露齋から富永不撓齋へと續く。卷末には月岡家の系譜が記されており、傳書というよりは、流儀の覺書として記されたものか。
2024/08/17
天流小太刀一流之段 筆者藏
私にとって、古文書蒐集の醍醐味は、その文書を調べて解明することにあります。しかし、多くの文書は調べても情報が足りず手詰りとなり、未解明のまゝ保管されています。今囘は、その中からこの一通を。
この文書に限って言えば、差出人が誰か分れば合格です。宛名の人物まで分れば文句なし。年號は缺損のため、特定は難しいでしょう。
少しの箇條のみの短卷です。奧書はこの通り。「齋藤傳輝房」の次の「多賀谷空庵」は、おそらく下妻城主「多賀谷重經」と考えて良いでしょう。そして問題の「山中五兵衞勝高」。年號がはっきりとしていれば、多賀谷重經の足跡から辿れたのですが、難しいですね。しかし、「空庵」號からすると晚年の弟子といった雰圍氣はありますし、彥根藩邊りから當ってみるのが正解でしょうか。宛名は「榊原金三郞」とあり、榊原康政に追われたという話しとも關わってくるか。
本文を記しつゝ調べたところ、彥根藩の『侍中由緖帳』に多賀谷家の由緖があり、それによれば重經は慶長六年下妻を退城、蟄居していたところ、元和元年井伊直孝に召し寄せられ扶持と屋敷を下されるとき、代りに次男茂元と三男寧經に扶持を讓り、井伊家に仕えさせ、自身は犬上郡多賀村に住み、折々登城して御機嫌伺いに出たとのこと。元和四年歿。
なお、彥根藩の分限帳や『侍中由緖帳』に該當する「山中」「榊原」は無し。「山中五兵衞勝高」は、重經が蟄居していたとき「空庵」號で相傳したものか。
と、このように多くの文書は調べてみても誰やら分らないまゝ。關聯する文書の一つでもあれば、まだなんとか仕樣もあるのでしょうが...
2024/08/17
物外不遷和尙筆書柬 筆者藏
この包帋をちょっと見た丈けで、誰の書柬か見當がつく人は相當詳しいと思います。私は、雜多に詰められた文書の中からこれを發見したとき、「あれ?もしかして?」と思いました。
いかゞでしょう、尋常な御家流に熟(こな)れた風を見せる筆蹟。伸々と書くために、やゝ竪寸ある料紙を用いたのかもしれません。普通の料紙は、上邊の折り目位までの寸法です。
已に『物外不遷書簡を讀む』で御覽の方もいるでしょう。物外不遷和尙の筆蹟です。拳骨和尙の名で知られることから、もっと豪快な字を書きそうな印象ですが、現實には尋常な書風です。その奇なるところを見出すとすれば、隸書の揮毫などに。
なお、本書柬の文面等については、『物外不遷書簡を讀む』に詳しく書いてあります。
不遷和尙に古物蒐集癖があったとは露知らず、「宣德年中の達磨大師立像」「古銅の楊柳觀音像」「七合入位唐物の宣德湯わかし」といった佛敎關係のものを蒐めていた樣子。
近年、御子孫の方が一切賣り拂ってしまわれたゝめ、遺品の數々は方々に離散しました。巷間でこれらの品々を見かけられた方や購入された方もいるでしょう。こゝに書かれた不遷和尙の蒐集品もどこか誰かの手に渡ったものか、あるいはもっと昔に形見分けで讓られたか。
2024/08/16
天道流兵法極意目錄 筆者藏
天道流といえば下河原氏、下河原氏といえば天道流、その始まりがこゝに。題簽は下部が蟲に喰われていて讀みづらいですが、『天道流兵法極意目錄』と書かれています。見たところオリジナルかと。
普通のものより、小振りな卷物が用いられています。古い時代の鐵炮の傳書などにも時々見かけます。中でも後の時代までこの小振りな卷物を用いる流派といえば、淺山一傳流でしょうか。なぜ、敢えて小振りな卷物を用いるのか氣になりますね。
內題の冒頭は「天道流目錄外」、つゞいて「極意小太刀」。卷名そのものは、外題の『天道流兵法極意目錄』の方です、しばしば勘違いされている記述を見かけますが、內題は必ずしも卷名ではなく、そのブロック每のタイトルであることが多く、その卷頭のタイトルがイコール卷名ではありません。およそ傳書は、單體のブロックか、複數のブロックかで構成されていて、それを總括したタイトルがあります。ゆえに、單體構成のものは內題と卷名がイコールの場合もありますし、敢えて內題にも卷名を記すものがあります。とはいえ、題簽に記される卷名は、必ずしも絕對的ものではなく、師範の裁量で名前を變えられることがあります。過去に、卷名を變えて良いと指示した書柬を見ました。
しかし、題簽は剝れやすく、後世卷名が分らないということはよくあります。そういうときは類似の傳書を探して卷名を知るほかありません。
天道流という流名について、『Wikipedia』に「下河原恭長は天道流と改め、松平家の丹波龜山への轉封により丹波龜山藩の劍術流派のひとつとなり、下河原家が藩の天道流劍術師範役を代々務めた」との一文があります。この說はそこそこ流布しており、『Wikipedia』という曖昧なコンテンツに限った話ではありません。
この一文の何が問題かと言えば、「下河原恭長は天道流と改め」たという點です。この記述をそのまゝ解すると、師日夏能忠より天流を相傳された下河原恭長は、その流名を○○流から天道流に改めたと讀み取れます。しかし、その師日夏能忠が下河原恭長に傳授した傳書には、已に「天道流」の流名が使われていたことが分ります。つまり、流名を改めたという訣ではないですね。
下河原の道統は裏面に續きます。そして、この指差しているところ、繼ぎ目の判、絕妙です。私がもっとも好きなポイントです。これまで言う機會は無かったですが、今囘は裏面にまで續いているので。
2024/08/15
建部昌興筆筆道祕傳 筆者藏
時代の古さを感じさせる煤けた桐箱に入っていたものは、この背が低くやゝ太めの卷物。表裂は、雰圍氣はありますけど、原裝ではなく轉用と見えますね。
開くと、このように卷頭のところが缺損、後から表裝し直されていると分ります。
典型的な御家流のスタイルですが、江戶時代を通してみると、この筆蹟は古い時代のものかと、そもそも料紙が古く、これは奧書を見ずとも凡そ分ります。 書かれている文面は、筆道について。武術の傳書と違って、筆道そのものを筆蹟を以て傳えることが出來る點、とてもユニークです。
偖、奧書の署名の所を見ると、「傳內介賢文」とあるのは、ご存じの通り、彼の能書家として知られる建部傳內。『寬政重修諸家譜』では「賢文(かたぶん)」のルビ。名の下に「判」とありますから、この人物本人の署名ではありません。寫したということです。その次、年月日の下の署名が本卷を寫した筆者です。この邊の書式は、武術の傳書とさほど異ならず。「~殿」とあるのは、無論本卷を受け取った人物です。
肝心の筆者の名は、今でも若干確信を持てずにいますが、署名そのものは「傳右衞門 昌(花押)」と書かれていて、「建部傳右衞門昌興」ではないかと考えています。昌興は、先の賢文の三男にて、その跡を繼いだ人物です。
『寬政重修諸家譜』より昌興について抜粋すると、「やゝひとゝなりて筆勢父に及ばずといへども、相繼で世に稱せらる。のち京師にいたり、長束大藏少輔正家、佐野肥後守綱正等が許に寄食し、慶長元年正興が書を能するよし臺聽に達すものあり。よりて伏見にめされ、はじめて東照宮にまみえたてまつり、御右筆に列し、采地五百石をたまひ、のち御側に侍して筆翰の事をつとめ、また薩摩守忠吉卿及び連枝の御方々に筆道をつたへたてまつる。これよりして世に御家流といふ。」とあるように、江戶時代の書風を確立した人物というわけですが、その筆蹟自體はあまり殘っていないようで、本卷の署名と比較する材料を見出せず。何かご存じの方は敎えて下さい。
この卷物は、嘗て習字の目習い用として購入しました。目習いというのは、犬養木堂先生が言っていた言葉で、見ている丈けでも違うという話し。それは、圖版や寫眞などではなく、實物の方が勝っているわけです。私は、今のところ積極的に和樣を習おうという氣がほゞ無く、せめて見る目を養おうかと。ほかに安東聖空や中野越南の書を見ています。
2024/08/12
隆安函三流鐵炮書 筆者藏
絹の表裂が劣化してポロポロと剝落する、なんとも時代を感じさせる一卷。同じ絹地でも、劣化しやすいものとしないものゝ差は何でしょうか?媒染の鐵分の有無か?
展ずると、流儀の始まり、起りについて記されています。私がなぜこの傳書を取り上げたか氣付くでしょうか?
この邊りを見ると分りますかね、墨溜りがあります、つまり、この序は木版摺です。江戶時代の武術關係の傳書で、木版摺のものは、管見のかぎり滅多に無いかと。不思議なことに、しっかりと筆で書かれたものより、簡易な印象を受け、有難味は薄れるように感じます。そもそも形式的なものゆえ、木版摺でも良いと言えば良いのかもしれませんが、當時の人はどう思ったでしょうか?
初代中村隆安から數えて四代目の隆以が萬治元年に記した序を木版に仕立てたようです。もしかすると、書き寫すのではなく、そのまゝの雰圍氣を傳えたくて、木版にしたのかもしれません。この序文の後は、筆で書かれています。
なお同流の師範は、はじめ毛利輝元に仕え、三代就冬のとき細川忠利に仕え、以降代々熊本藩に傳えられました。
2024/08/02
小出切一雲書柬 筆者藏
天下に名高き肥後熊本藩の雲弘流。その祖井鳥巨雲に宛てられた書柬。宛名の「鳥」字が缺けているのは、封緘の紐が掛っていた爲です。これを殘す場合もありますが、大體千切ってしまいます。
差出人の小出切一雲は、ご存じの通り針谷夕雲より無住心劍を繼承した人物(但、當時無住心劍とは稱していなかったようです)。兩者の關係については、敢えてこゝに贅せず。
同種の書柬を富永堅吾氏が所藏していたと思います。あまり巷間に出ることはありません。この書柬は、嘗て熊本藩の雲弘流師役が所藏していました。同流にとって特別な文書です、御察しの通り。
披くと、筆蹟はこのように一風變わった印象を見る者に與えます。當時普通に書かれた御家流とは異なる獨特な書風と言って良いでしょう。若干唐樣が混っているのかもしれません。いずれにしても、どの程度の期間か分りませんが、一雲は筆道にも傾注したものと見えます。
癖のある字で、數文字讀めませんが、大略を申しますと、將來有望な根岸氏という巨雲の門弟について語られています。修行熱心な孫弟子の存在を我が事のように喜ぶ樣子、師弟は父子の關係に近いものか。書柬の後の方には、一雲自身の近況、冷氣で體調を崩していたが快復してきたなどゝあり、また近日會いましょうと締めくゝる。富永堅吾氏舊藏の書中においても、「期拜面」と書き添えており、兩者が度々會っていた樣子を傳えています。
空鈍號によって、一雲出家の元祿二年を上限、歿年寳永三年を下限とす。富永堅吾氏旧蔵の書柬を見ると、そちらの筆跡はやゝ精彩を欠き、筆勢に乏しく、本書柬よりも老年のものかと察せられます。
この書柬の料紙、畫像では見えないと思いますけど、雲母が交っていて光の加減で點狀の雲母が輝きます。後引か漉き込みか專門的なことは分りませんが、質素な料紙ではなく、ちょっと高價そうな料紙を用いている點、意外でした。
2024/08/01
後藤悅乘作俱利迦羅龍王圖小柄 筆者藏
昔、刀を蒐集していた頃に購入した刀裝具の一つ、この機会、久しぶりに觀賞しました。擦れやすいところは少し鱗がなだらかになっていますが、そこからちょっと眼を轉じれば、鱗は充分に立っており、時代を考えれば良いコンディションです。
昔はあまり思わなかったのですが、今改めて見ると、觀光地のお土產屋によくあるキーホルダーを思い出しますね。出来は全然別物ですけど。あのキーホルダー、小學生のころ持ってましたよ。
俱利迦羅劍の柄周りの角の立ち方、佳いですね。彫金の精度、造形の美しさと言うのか分りませんけど、明らかに上等の品でしょう。昔は、常時調べた知識が備わっていたのですが、今となってはもう殆ど覺えていないため、詳しいことは何も言えません。
私が刀裝具を蒐集していて、數年經ったころか、中國製の刀裝具というのが出廻るようになって、年々精度を上げてきたことを覺えています。今はどうなっているのか知りませんが、相當な精度の贋物が出囘っているのではないかと想像します。
裏面に後藤悅乘の銘。昔、これを調べた結果、後銘ではないと結論付けました。畫像は若山猛氏編『刀裝小道具銘字大系』より。その銘は、父程乘に似ると。
現在所藏している刀裝具は二點のみ。數多の刀裝具・刀劍はほゞ全て處分しました。
2024/07/31
玉龍軒吉田信勝作柳生家紋小柄筓鍔緣頭 筆者藏
これもまた、刀を蒐集していた頃に購入した刀裝具の一つ、やはり久しぶりの觀賞です。
これは當時知人に懇願して讓ってもらった思い出のある品。柳生ですからね、何としても慾しいと思ったあの强い氣持ちは今も色褪せていません。武術に關心のある方なら理解って吳れるでしょう。これほどの逸品、そうそう出てこないですし、巡り合う機會さえ有るかどうか。あの時讓ってもらわなければ、一生後悔したと思います。蒐集道においては、千載一遇の好機を逃さないことが大切です。妥協の将来に、善い蒐集は存りません。
非常に丁寧な造り込みです。拵に使用された痕跡は無く、本來は目貫も有って、一揃いで保管されていたのかもしれません。
吉田信勝、この人の名は若山猛氏編著『刀裝金工事典』にあり、江戶に住し、通稱は市兵衞、晚年は松叟と稱す、と。安政五年の作が確認されているようです。とすれば、この作も江戶時代後期のものでしょう。
小振りな鐔にも家紋を配していますが、敢えて金を用いず地味に仕立てた工夫、全體としての釣合を考えたものか、作者の美意識を感じます。魚子地、綠靑痕。
2024/07/31
澁谷流釼術奧之免許/澁谷流釼術指南免狀 筆者藏
先日、永井義男氏の著書『劍術修行の旅日記』を讀み終えて、この澁谷流を想起せずにはいられず、もう一度こゝに紹介します。詳しくは四年前の記事「眞影山流居合傳談と澁谷流釼術傳播の經緯」に記しました。
『劍術修行の旅日記』、一般的に讀み易いように仕立てられている爲、若干の創作が入っているかもしれませんが、槪ね記錄に基づいた內容かと思われ、修行人に對する各藩の道場主の對應など、見所が多かったと思います。他藩士とそゝまで垣根無く交際できたのかと、ちょっと驚きもしました。他に細かい所を擧げると、千葉榮次郞の對應が酷かったとか、津田一左衞門兄弟が遣い手だったとか。
石川八太郎の僅かな滞在期間に、大急ぎで認められたものと思われますが、書きぶりは丁寧です。大藩への流儀の傳播、やはり後世の視線も意識して書かれたものでしょうか。
この記錄の存在は重要です。もし、前の傳書二帖のみが現存していたら、なぜ仙臺の地に澁谷流が傳わったのか、謎のまゝだったかもしれません。しばしば、傳書のみを切り離して賣られてしまうので、斯ういった文書と引き離さないことを祈ります。所謂散逸ですね。そもそも、流通段階において古文書をよく知らない人たちが介在するため、賣りに出されて、且つ全く散逸していないとすれば、それはとても幸運なケースです。
もう少し話すと、傳書は一見して目を引く存在であることから、賣りに出される以前、その所藏者の家において、それだけ特別に除けて保管されたりもするため、餘計に他の古文書などから散逸しやすいように思いますね、想像ですけど。
後年、澁谷流の門弟たちを連れて、御城で見分があったと記錄されています。
2024/07/30
北海片猷先生筆扇面 筆者藏
探し求めていた人物の筆蹟、ようやく入手しました。同樣の袋に入れられた樣々な人物の扇子が三四十本ほど有ったでしょうか、これはその中の一つです。扇面の揮毫はちょっと珍しいですね。掛軸に比べて、數は尠いでしょう。尠いからといって價値が有るというわけではないですが、料紙の寸法と疊む性質から、必然的に小字になりやすく、精品が多いように思います。精品と感じるのは、私が小字を好む所爲かもしれませんが...
初めて開いたとき、ぐっと見入ってしまいました。佳いですよ。多分ですけど、揮毫するとき旣に扇子として仕立てられていて、書きにくかったのではないかと。文字を見ると、料紙の角度によって筆が進みづらかった樣子が見て取れます。
私も老眼になったら、この字を見づらくなるでしょうね。そう考えると、肉眼で樂しめるのは殘り僅かな期間かもしれません。堪能しておきましょう。しかし、眼鏡屋に言わせると、旣に老眼は進行していて、それを眼の筋肉が調整してカバーしているのだとか何とか、そんな話を先日聽きましたね。
「宿髮截山慈光寺作」、蒹葭堂の詩にも「宿髮截山慈光寺」が有りますので、おそらく連れ立って宿泊したとき賦されたのでしょう。鬼が髮を切って役小角に降伏したという傳說がある、大坂の髮切山慈光寺です、眺望の素晴らしさは想像に難くありません。もうちょっと調べて書きたいところですが、サイトの整備に時間を使いたく、一旦この邊に止めて置きましょう。
2024/07/30
無名老翁岡本宣就筆唐詩卷 筆者藏
スライド式の蓋には「無名老翁岡本半介詩卷」と書かれていて、その裏には識者の書付がありますが...讀めませんね、まあ良いでしょう。表裝は、時代相應のものかと見受けられます。紐はもしかすると替っているかも?恐らくオリジナルでしょう。假に替えられていたとしても時代は相應に有ります。
宣就の歿年を考えれば、相當昔のものですが、特に何か手を加えた形跡は見當らず、おそらく原裝でしょう、幸運なことです。
杜審言の「早春游望」、許渾の「七里灘」、韓翃の「題僊遊觀」、王建の「宮詞」、以上四首の揮毫。唐詩選に載っている人たち?
筆蹟は尋常な和樣、筆速は緩々、時々遊び心が見えますね。年紀こそ欠くものゝ、奧書にもあるように、年老いた晚年の書風かと。
奧書には斯う記されています。「所望に依て、象嵌の老翳を掃ひ、龜手の禿毫を揮ひ、書以てこれを授く。聊か外看を禁ず。」と。署名は「無名老翁」とあり、これ丈けで特定は出來ませんが、印文に「石上」「卍(萬)就」とあることから、岡本宣就に相違なし。印には僞臭が無く、これも佳い、完璧です。
2024/07/29
無住心劍奧義書 筆者藏
この卷物は、畫像で傳わるか分りませんが、當時一般的に書の作品などに使われる卷物よりも一廻り大きく、手に取ってみるとずっしりと重みを感じます。(重さは、單に表裝の加減かもしれませんが)
後世のものと思しき仮貼りの題簽が貼られていて、その一部が缺けています。『新景流劍術奧義 一卷』と書かれていたのでしょうか?「新景流」と書くからには、元々そういう情報が有ったのかもしれません。というのも、文中のどこにも「新景流」という流名は出てこないからです。若しかすると、當時針谷夕雲は「新景流」と稱していたのかもしれません。
巻を展けば、禪に見られる語句が頻りと出てきます。卷頭を讀んでみましょう。
「夫れ我か道の兵術は、剱上に人を求め、電裏に垂手して危亡を願はず、一超して直に如來地に入る。郤(かへ)り來つて鈍刀、利と爲せば、閃電猶ほ遲く、魔外も窺ひ難し。娘生の面目を以て、威儀の中に問はゞ、これを受用して直面目と曰ふ。」
淺はかなことを言えば、人の死生に關わる武術と禪との相性はとても良い、と常々思っています。
卷中全て、このように種々の禪語が驅使され、およそ十四篇あり。中には出典を審らかに出來ない語句も出てきました。
奧書にはこのように書かれています。「寬文八年九月念三日、前東福虎伯叟大宣、針谷夕雲老人の多秊の需めに應じてこれを書く」と。
虎伯大宣は、東福寺二四〇世、東京駒込龍光寺の開山。一方の針谷夕雲は、無住心劍の開祖、虎伯大宣に參禪して一流を開いたとされています。
つまり、虎伯大宣は、針谷夕雲が沒する前年、多年の賴みに應じて、これを揮毫したということ。即ち、この巻物が、無住心剣という流儀にとって重要な文書であることは容易に察しがつくかと思います。
卷中、無住心劍の名が出てくるのはこゝです。
「經に云く、應に色に住して心を生ずべからず。應に聲香味觸法に住して心を生ずべからず。この廣大寂滅の妙心は、色を以て見(み)、聲をもつて求むべからざるとなり。「應に住する所無くして」とは、この心に實體あること無きを謂ふなり。「而して其の心を生ず」とは、この心眞を離れて立つ所あるには非ず、立つ所卽ち眞なるを謂ふ。これを以て無住心剱と號す。」
江戶時代の書や古文書に詳しくない人は、こう思うかもしれません、「本物なの?」と。當然思うでしょう。詳しい人であっても、實物を見なければ判斷できないと言うかもしれません。已に實物を見た私が考慮する點は、「寫か否か」です。つまり、本人の自筆なのか、それとも別人が寫したものなのか、もし別人が寫したものであれば、その文書の價値は全く變ってきます。なお、贋物という線は考えていません。
結論から言うと、私はこの卷物は虛白大宣の自筆であり、冩では無いと思います。なぜそう思うのか、それは料紙がその時代に相應しく、書風・筆蹟が全て氣脉貫通しているからです。江戶時代の書や古文書を數多く觀ていれば解るかと思いますが、冩にはどうしても自筆の筆蹟に成り得ない面があり、その殆どは仔細に觀察すれば見破れるものです。
「冩」の可能性を視野に入れた要因は、奧書に印を缺くためです。この手の揮毫に必ずしも印が捺されるわけではありませんが、これが無いとなれば、必然的に冩の可能性を考えなければなりません。印が有っても贋物の可能性を除けるわけではありませんが、こゝではあまり詳しく語らなくとも良いでしょう。
因みに、上揭の畫像の文字、最も判讀に苦慮しました。答えは「此れに因て曰く、「朝に參じ、晝に參じ、暮に參ず」と。」。同じ「參」という字を三樣に變えてますね。
2024/07/28
天道流印可 筆者藏
天道流といえば下河原氏、下河原氏といえば天道流、有名ですね。本來卷物の料紙であったものを轉用して縱書きされ、このように折り疊まれています。表面處理が剝落していることから、單にこれが經年のために傷んだのではなく、手擦れによって剝落したのだと、その內容からも察せられます。
展くとこのように三箇條が記されています。別本には、もう少し足されていたように思います。
更に展くと三箇條、そして流儀の道統が記されています。この種の印可を見ると、私は何となく馬庭念流の『天眞正印可』を思い出します。
さて、道統を仔細に見ると、違和感を覺える人がいると思います。少なくとも、私は違和感を覺えました。未だ詳しく調べていませんが、他の傳書についても同樣のことにて、一旦傳授を承けた者の名が改められており、こゝに何かしらの不自然さを感じるのか、と。傳授を承けた者の名を改めることは間々あることにて、その主用な例は再利用にあります。たゞ、この下河原氏の例はちょっと違うようにも思われるも、よく調べなければまだ何とも言えず。
印定認可(いんじょうにんか)、印信許可(いんじんきょか)のこと。すなわち師が弟子の悟境を認めてこれを証明すること。おもに禅宗や密教で用いられる用語。1
表面に道統が更新されているように、裏面にもこのように道統が更新されています。やゝ雜然とした印象を受けますが、流儀史上缺くことの出來ない文書です。
2024/07/28
初心者が古文書解讀の學習に躓く理由は、「年齡」にあると思います。
年をとっているから吸收率が善くないとか、そういう話しではなく。未知なる行書・草書(くずし字)の字形を、たくさん覺えなければならない、その單調な學習に大人は堪えられないのです。
古文書解讀の學習は、初めがとても困難です。はっきり言って、もっとも險しい峠がはじめにあると考えて下さい。 このはじめの難所を越えられず、中途で挫折してしまう人が殆どゝ言って良いでしょう。
打算のない子ども時代であれば、退屈に思いつゝも讀み書きの學習にさほどの苦痛を覺えず從事できるものです。しかし、多くの大人にとって、古文書解讀は趣味程度のこと、達成したとて實益はなく、日々の限られた時間の中で、苦しい嫌な思いをして、その他の娯楽に振り分けられる時間をかけてまで、チャレンジし續けようという意欲を保ちにくいものです。
つまり、こゝに學習方法の答えがあります。古文書の學習に取り組むとき、自分の心理にとってマイナスの要素をよく分析し理解して、學習の意欲を削ぐ要素をカバーするように工夫するのです。快適に學習できる環境、飽きない工夫、時間をかけない工夫、嫌いにならない工夫、さまざまです。
もっとも困難な最初の峠を越えさえすれば、その先には自分の力だけで理解できる古文書の世界が廣がっており、解讀する樂しさは初心者のころの比ではありません。初心者にとって最も必要なものは、はじめの峠を越える覺悟です。
1)解讀するために辭典(字典)を用いない。
時間對效果・勞力對效果を考えれば、解讀するために辭典(字典)を用いることは、避けた方が良い。特に、初心者が該當。特に、初心者が該當。
→古文書を解讀出來るか出來ないかは、(日頃の學習によって)讀む以前に決定している。
→初心者は辭典(字典)を用いる段階に至っていない。優先すべきは、行書・草書を覺えること。
辭典(字典)の要・不要の差は、腰を据えて、本氣で古文書解讀を學ぼうという姿勢か、肩の力を拔いて解讀そのものを樂しもうという姿勢かで分れます。本氣で古文書解讀を學ぼうという人は、第一に文字(行書・草書)を覺えるところから始めるべきです。
→毛筆を以て習字することで、一字一字の些細な筆意にも氣付けるようになります。
私の場合、初心者のころは一般的敎導(於大學)に從い、暫く辭典(字典)を使用していました。それから何年經ったころか定かでありませんが、辭典(字典)を使用する效率の惡さに思い至りました。
たしかに、辭典(字典)を使用する解讀によって得られるものはありますし、全てを否定するわけではありません。辭典(字典)に依て解讀できれば達成感を得られ、また能く記憶に殘るというメリットがあるかと思います。しかし、大きな缺點があります。
人の時間は有限だということです。これは、そもそもの目的をどこに定めるかで考え方が變ります。たとえば、古文書を解讀をするために解讀の勉强をするのか?それとも、古文書を硏究したくて、その手段としての解讀を勉强するのか?また、單純に解讀を樂しむ爲に解讀を勉强するのか?目的によって大きな隔たりがあります。
本氣で古文書解讀を學ぼうと思い立って、解讀を勉强する場合、速成こそ正義と言えます。辭典(字典)を使用して、讀めない字を探すために時間を費やすより、知らない字を記憶するために時間を振り分けた方が效率的です。
人の性質によって、勉强の仕方に向き不向きはあると思います。しかし、短い時間で大きな成果を得ることは大切です。人の時間は有限。仕事・睡眠・交際・家事・食事など、これらの時間を差し引いたあと、勉强に振り分けられる時間がどれほど有るでしょうか、恐らくそう多くはないでしょう。
2)行書體・草書體(所謂くずし字)は、楷書とは別の書體として捉えて、覺える方が記憶しやすい。
注意すべき點は、必ずしも一文字一文字を分離して覺える必要はなく、群體・聯綿(例:奉存候・可被下候・御座候)を意識して覺えること。
「くずし字」という言葉から、なにか楷書を崩したようなものと誤認されがちですが、別の書體として認識して見ることが大切です。
3)解讀に重要なものは「文脈」。縱令、行書體・草書體(所謂くずし字)をどれほど覺えていたとしても、文脈を知らなければ十全にその記憶を發揮することは出來ない。文脈をよく知れば、文意も自ずから明らかになる。
自身の解讀の成否は、文脈を以て計れる。解讀した結果、慣れ親しんだ記憶の文脈と適合しない、違和感があるというときは、大體誤讀がある。文意を摑むために、敢えて現代語譯する必要はない。ネイティブな感覺を養うことが肝要。
4)古文書解讀に必要なものは「記憶」。記憶力がある人ほど上達するのは早い。 しかし、近道を行けるか、遠廻りするかといった差はある。
→古文書解讀の學習は、「たゞ覺えるのみ」。但し、學習を持續させるためには、興味・關心も必要。
→「たゞ覺えるのみ」、これは分り切ったことのようで、よく分っていない人が多いように感じます。純粹にたゞ記憶するだけなのです。私の記憶力は平凡以下、本氣で莫大な時間と勞力とを費やして、ようやく95~99%に到達しました。しかしあとゞれほど學習したところで、この數%は埋められないでしょう。
行書・草書(所謂くずし字)を覺える方法は、「書いて覺える」より、「書くために覺える」方が效果的。筆記體という位置付けで臨めば、記憶力が向上するように思います。
5)實物を見る。
→書籍や敎材から得られる視覺情報より、實物の古文書を肉眼で見て讀む方が、得られる情報は遙かに多く、有意義。
→墨の微妙な濃淡や運筆の痕跡は、寫眞・印刷では分らない。
→實物の紙質は、時代を計る上で重要。
→實物を知らなければ、眞贋鑑定は不可能。古文書學において、これがとても重要。中村直勝氏も語っていたように思います。
「實物を見る」、このために古文書蒐集を始めたのか、蒐集した古文書を讀みたくて、學習を進めたのか。私の場合、蒐集と解讀とが兩輪の如く働き、古文書解讀の技倆が向上したように思います。眞贋鑑定についても、ずいぶんと苦心しました。
眞贋鑑定力は、蒐集欲が無ければ、中々伸びないかもしれません。身錢を切って買う。贋物という地雷を避ける。爲に、日頃からよく鑑識眼を磨くのです。また、その道に詳しい人の話をよく聞くことが大切です。獨りよがりな考えに囚われていては、いつまで經っても公正な判斷ができません。
詳しい人に聞くといっても、いきなり聞くのではなく、先ず自分なりに調べて、分る點・分らない點をはっきりさせ、現狀導き出される答えを得てからにしましょう。
6)好きこそものゝ上手なれ。
→根元に好奇心が無ければ、この現代において敢えて古文書を深く學習しようとはならないように思います。
初心者のころ、古文書を滿足に解讀できず、自分には才能がない、不可能かもしれないと頭をよぎることがしばしばありました。その都度、自分に言い聞かせたことは、「江戶時代の人でさえ、始めから讀めたわけではない、「いろは」から始めて數年かけて讀み書き出來るようになった筈だ」と。
古文書解讀の學習は、外國語を覺えるくらいの氣持ちで臨んだ方が精神的に善いかもしれません。現代において、古文書を學習する者は大人が多く、早く上達したいという焦躁感が先に立ち、中途で學習を止めてしまうことが多いように思います。 →急に古文書を讀めるようにはならない、故に好きでなければ續かない。
7)讀めない字を探す。(直ちに答えを得られるものを對象として)
こゝ數年、私の學習法といえば、專らこれです。
讀み進めて、讀めない字があれば、譯を確認して覺える、速く、そして簡單。
これは「獨學・古文書學習法1:字典不用」にも通じます。直ちに答を得られる讀めない字を見付けることゝ、答が分るか分らないか定かでない字典を引くことゝを比べたとき、どちらが有益か。讀めない文字に出遭ったとき字典に賴るのか、それとも日頃から讀めない文字を一つでも多く消し置くのか、どちらが有益か。考えてみてください。
附)古文書學習の敎材は、よく吟味した方が良い。
敎材の中には、古文書を寫眞ではなく、文字だけを殘して白拔きしたものをしばしば見掛けます。これは、鮮明な寫眞を載せられない時代の本ならばいざ知らず、この現代において撰擇すべき敎材では無いでしょう。
もちろん、本文・內容そのものが優良なもの、印刷の都合上、あるいは價格設定の觀點から、寫眞を使えない場合もあると思います。こゝに述べる敎材の吟味とは、特に解讀に重きを置いた場合です。
毛筆の纖細な筆意を汲み取るためには、實物がもっとも望ましく、次いで鮮明な寫眞です。
以上の記事は、以前SNSに連續投稿したものをまとめたものです。加筆訂正の餘地を殘しつつ揭載。乞推覽。
2024.08.10
初めて筆を把ったとき、何一つ思い通りにならず、投げ出しそうになったことを今でも覺えています。そんなときは、一朝一夕に身に付くものではない、下手でも良い、日課の習字を三年は續けようと、自身の氣持ちを宥めつゝ、はや一千日。日々、たゞ董其昌を臨書するのみ、筆の裏表、トメやハネ、筆の執り方さえ一切知らず、今日に至りました。目標は名人・上手になることではなく、人目について恥ずかしくない程度になりさえすれば良い、目的は古文書の解讀の精度を向上させるため、日課の習字三年を經た後も、さらに三年續けていく積りです。
古文書解讀の精度向上となれば、本來なら御家流、和樣を優先して習うべきですが、書法という觀點においては唐樣が優先されるため、江戶時代の文人に愛された董其昌の書法に習っています。
こゝに揭載する畫像の數々は、日々の習字の痕跡、自戒のために。そして、ほかにも幾つかの目的はありますが、その最たるものに閱覽者への自己紹介という目的があります。字すら書けない者が、筆蹟について語ったところで、何も感じませんよね?筆すら握ったことがない者が、先人の書について語っていたら諸兄はどう思うでしょうか?
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