蘐園學派の筆蹟

徳富猪一郎著『頼山陽』より

所謂る學問で、天下を風靡したのは徂徠である。徂徠の出現は、確かに日本の近世文敎の上に於ける劃時代的のものである。吾人は今茲に、徂徠學の要旨を語る者ではない。然し一言すれば、聖人の道は六經に在り、故に六經を讀まざれば、能く解るものではない。六經は文字章句によつて出來てゐる。故に文字章句の學を修めなければ、六經が解る筈がないと。其處で彼は修辭の學を以て聖人の道に達する階梯とした。山崎流などにては、それを記誦詞章の學して輕蔑し、學問は居敬窮理に在りとしたけれど、徂徠流では居敬窮理などは、畢竟禪坊主の受賣りであつて、聖人の道ではない、聖人の道は天下國家を治むるの道なりと云ふ見識からして、一世を指導した。それで是れまで聖人の道は、吾意を誠にし、行を正しくするに在りとしたものが、天下國家を治むるが學問であるとなつて、是れまで狹き部屋の中に詰め込まれた人間が、廣大無邊の天地に飛び出した如く、實に人の氣分を一新し來つた。
吾人は何故に徂徠學が、天下を席卷した乎と云ふ事に就て考へねばならぬ。彼の聖人の道は、全く功利主義に立脚して居るものであつて、彼の著眼は個々の人間でなく、天下國家と云ふ集團である。個々の人間は兎もあれ角もあれ、天下國家を平治して、凡ての者に幸福を與ふるが、聖人の道を行ふ所以であるとして居る。されば學問が殆ど治者階級に局限せられた當時に於て、それが驩迎せらるゝのは當然過ぎると云はねばならぬ。加之、是までの學者は、文學者は經學に疎く、經學者は文學に疎く、何れも片輪であつたが、徂徠に至つては、一方では修辭學の大家となり、詩でも文でも、支那の作者をして奔り且僵れしむるの腕前を持つて居り、其の根據を六經に置き、新たなる見解を以て之を說き出したから、天下無敵と云ふも亦怪しむに足らぬ。
人は徂徠の詩文は、何れも李王の風を慕ひ、古に摸擬したる文學であると云ふが、然し徂徠程立派な漢文を綴り得た者は、彼の前は固より、彼の後にも皆無と云はざる迄も、恐らくは鮮かつたのであらう。且つ學者と云へば、兎角實際に迂濶の者であるが、徂徠は何處を搜しても迂濶の迂の字さへ見出されない。彼は決して空想家でなく、又た机の上の政治家でもない。彼の當世の務に對する意見は、自ら德川幕府に奉仕し、將軍の懷刀となりたる白石などに比すれば、却て實際に適切だ。世の中では學問ある者は實務に疎く、實務に達する者は學問に疎くあるが、徂徠は二つながら兼備へて居た。のみならず新井白石などは、天下の要路に立ちつゝも、殊更に門戶を狹くして、野中の杉の一本立といふ姿であつたが、徂徠は恰も一本の榕樹が自ら森を成す如く、彼は其の門戶を開放し、苟くも其の後進にして寸善尺長ある者は、極力之を推挽し、之を世の中に紹介し、從つて其の門戶は自然に長大せられて來た。のみならず彼は、縱令己と異りたる立場に在る者でも、能く之を容れん事を努めた。彼の門人南郭、春臺、周南、東野、金華など云ふ人〃は云ふ迄もなく、例へば木下順庵の門人雨森芳洲の如き、肥後の朱子學者藪震庵の如き、必ずしも彼の經學の意見に隨喜せざる者迄も、槪ね之を容れた。水戶の安積澹泊などとも亦交はつた。要するに徂徠學の天下を風靡したのは、徂徠目身が經學に長じ、文章に長じ、氣魄があり、才略があり、且つ殊に親分肌の襟度がある許りでなく、更に彼の學問が時に相應し、而して彼の立場が、極めて其の學問を宣傳するに、都合好かつた爲めと云はねばなるまい。4

  1. 近世藩校に於ける學統學派の硏究 下 p.1997 ↩︎
  2. 大日本名家肖像集 ↩︎
  3. 防長人物誌 p.124 ↩︎
  4. 德富猪一郞著『賴山陽』 p.33-36 ↩︎
error: Content is protected !!