詠而歸廬主人宮島大八先生
先生は歸國後、東京帝國大學、東京外國語學校其他に於て支那語を敎授せらるゝと共に、家塾を詠歸舍と名け後これを善隣書院と改め、支那語學習者の金科玉條たる急就篇を著作せられる等、門下子弟の敎導薰化に努められ、爾來五十年終始一貫國事を憂へ、特に支那問題の解決に精根を費された。
先生は眞に所謂外柔內剛の質であって、苟くも名利に亙る所爲を好まず、善隣書院の經營に就ても、幾度か官界財界の有志より其の擴張の爲援助の申出があったが、一切之を謝絕して塾草創の根本精神を堅持し、終生一隱君子として推移せられた。倂し乍ら機に臨み大事に當っては凡愚を瞠目せしめる活躍を試み、所信を貫くに飽くまでも强く、能くその眞骨頂を發揮せられた。
頑驢庵主藤本恆雄の著書『淸而歸廬淸話』の緖言より
目次
詠而歸廬主人宮島大八先生舊藏顏魯公裴將軍之詩
『送裴將軍詩』、唐代の顏眞卿の書と傳えられる名帖。詠翁所藏の由來と七律とが書かれている。「丁巳(大正六年)十月丗日の晚、荒賀・深田二老と鶴見綜持寺に同行して歸路、銀坐の夜市を過りこの帖を見てこれを購ふ、價七角、三人見てこれを奇とす。」
詠而歸廬主人宮島大八先生尺牘:八月廿四日付 筆者藏
竹添履信宛。竹添履信は嘉納治五郞の長男、後ち竹添進一郞の養嗣子となる。則ち書中の「先考井々居士」とは竹添進一郞のことにて、「御遺著左氏會箋」は同氏の著書、明治三十七年に出版された。書中、同書の序文に見える江瀚(淸代の著名な學者・敎育者)について、當時慶應義塾に留學していて時々善隣書院を訪れていた孫江勉に見せようという話。
詠而歸廬主人宮島大八先生尺牘:十二月一日付 筆者藏
遠山篁堂宛。遠山篁堂は高崎正風に師事した歌人。御歌所寄人。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆岑參胡笳歌送顏眞卿使赴河隴
盛唐の詩人岑參の古詩。題の如く、河隴に赴く顏眞卿を送る詩。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆無題 筆者藏
この詩は『濂亭遺詩卷一』に載る。張廉卿の高足賀天游この詩を評して曰く「收類箴銘、意非詩興」と。
本作は、詠士が淸より歸國してから二十七年を經た大正十年歲首の揮毫。この年三月「高橋景羽墓表」あり、自己の書風を確立した時期とされる。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆廉卿先生醉中作 筆者藏
『濂亭遺詩卷一』に載る。「俱塵土」は「皆塵土」とあり。「峴首」は稿本の字。「鐘」字と見えるところは「閑」とあり。書風は昭和二~四年頃歟。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆江淹古別離 筆者藏
江淹は南朝の政治家・文學家・散文家、濟陽郡考城縣の人、南朝宋・齊・梁の三朝に仕えた。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆七絕 筆者藏
元帥山本五十六舊藏。反町榮一舊藏。昭和三十三年、元帥山本五十六の長男山本義正と禮子とがこの書を持參し反町榮一に贈る。大正九年~昭和二年頃の作歟。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆一生不聽浙江潮 筆者藏
禪に通じる蘇東坡の詩「廬山煙雨浙江潮.未到千般恨不消.到得歸來無別事.廬山煙雨浙江潮」の一節を引いた一行書。心は已に「浙江潮」から遠いところに在り、迷い無き境地を表したものか、凡人には揮毫の意圖を推し量れない。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆姚鼐復魯絜非書一節 筆者藏
姚鼐の魯絜非に復する書より、文を論じた處を引用する。前節、「得於陽與剛之美者」に對を爲す「得於陰與柔之美者」の方を取る。後節、歐陽修・曾鞏の文「其才皆偏於柔之美者也」を取る。このことから、鈴木夫人は文筆に關わる人物であったらしいと想像できる。
詠而歸廬主人宮島大八先生筆杜牧詩三首 筆者藏
寺岡月峰の爲に揮毫された五帋。晚翠軒帋箋・梅花書屋帋箋を用ゐる。
栗香宮島誠一郞先生筆草堂春日咏懷 筆者藏
『養浩堂詩第二集卷三』、明治二十三年淸國公使黎庶昌(號蒓齋)春季同文會に列坐の折り詠まれた「庚寅三月三日黎公使蒓齋君爲春季同文會公使有詩乃次原韵」に次ぐ「賦四律畢餘興未盡偶用原韵題草堂卽事遣懷」と題された一首を揮毫した一幅。席上において揮毫されたものか、無印。
羽皋黑田淸隆先生筆書柬:明治二十五年二月六日付 筆者藏
宮島栗香宛。宮島詠士舊蔵。
先夜雅宴の節の大酩酊を謝し、そのとき依賴した詩を本日送られたことに對する禮を述べる。率直に心中を吐露する黑田淸隆らしい文面。
羽皋黑田淸隆先生筆書柬:明治二十五年一月十九日付 筆者藏
宮島栗香宛。宮島詠士舊蔵。
明治三十二年正月十九日、勝安芳歿す。その一周年忌の日、黑田淸隆は勝安芳の死を悼み、且つ以前に問われたとき失念していた山縣有朋へ送る詩を書き添える。
詠而歸廬主人宮島大八先生舊藏顏魯公裴將軍之詩
丁巳十月丗日之晚荒賀深田二老同行鶴見綜持寺歸路過銀坐夜市見此帖購之價七角三人見而奇之
詠而歸廬主人宮島大八先生尺牘:八月廿四日付 筆者藏
拜復其後御無音申上心外之至存上候偖今般は先考井々居士[竹添光鴻]御遺著左氏會箋一部御投惠被下御芳情奉深謝候緩々拜見先輩苦心之迹を尋可申候卷首之江瀚氏序文見候楊人の孫江勉目下慶應義塾在學時に敞社にも相見へ候に付其節は相示可申候嘉納[履正]先生益御健勝之御事存候何卒宜敷御致聲願上候先は御禮のみ申上度如此候也
詠而歸廬主人宮島大八先生尺牘:十二月一日付 筆者藏
拜復寒氣日加へ候處御起居愈御健勝奉大賀候偖先般來每々御厚誼を忝し一度御答禮に罷出度乍存繁忙中□今不果其意甚御無禮奉存候際頃者又々御枉駕被下續々玉章拜復重々の御懇情不勝感謝次第に御坐候義亭御雅集欣然參上可仕先は御返事迄如此御坐候敬具
詠而歸廬主人宮島大八先生筆岑參胡笳歌送顏眞卿使赴河隴
君不聞胡笳聲最悲紫髯綠眼胡人吹吹之一曲猶未了愁殺樓蘭征戍兒涼秋八月蕭關道北風吹斷天山草崑崙山南月慾斜胡人向月吹胡笳怨兮將送君秦山遙望隴山雲邊城夜夜多愁夢向月胡笳誰喜聞
詠而歸廬主人宮島大八先生筆無題 筆者藏
人生一瞬耳 所爭乃千古
道遠日苦促 十恆不及五
況復逐多岐 而慾覬前武
驚風歘以馳 百悔不一補
嗟餘搆憂患 尺捶已折半
望古怳向若 浩浩無涯岸
亮知驚蹇姿 騁途安及萬
竭蹶競暮光 猶愈長夜漫
踡局而不前 汝乃是終焉
詠而歸廬主人宮島大八先生筆廉卿先生醉中作 筆者藏
多事大撓作甲子
於今五千八十霜
賢愚萬古俱塵土
尺寸幾人爭短長
峴首羊公苦墜淚
窮途老阮日擧觴
身後浮名眼前酒
付與先生鐘稱量
詠而歸廬主人宮島大八先生筆江淹古別離 筆者藏
遠與君別者 乃在雁門關
黃雲蔽千里 遊子何時還
送君如昨日 薝前露已團
不惜蕙草晚 所悲道里寒
天在君一涯 妾身長別離
詠而歸廬主人宮島大八先生筆七絕 筆者藏
跨海東來訪赤松
亂山騎馬似騎龍
白雲堆裏容高臥
聽打身延百八鐘
詠而歸廬主人宮島大八先生筆一生不聽浙江潮 筆者藏
詠而歸廬主人宮島大八先生筆姚鼐復魯絜非書一節 筆者藏
得於陰與柔之美者則其文如升初日如淸風如雲如霞如煙如幽林曲潤如淪如湊如珠玉之輝如鴻鵲之鳴而入寥廓其於人也漻乎其如歎邀乎其如有思㬉乎其如喜喜漱乎其如悲觀其文諷其音則爲文者之性情形狀舉以殊焉
抑人之學文其功力所能至者陳理義必明當布置取舍繁簡廉肉不失法吐辭雅馴不旗而已古今至此者蓋不數數得然尙非文之至文之至者通乎神明人力不及施也
詠而歸廬主人宮島大八先生筆杜牧詩三首 筆者藏
<遣懷>
落魄江湖載酒行 楚腰纖纖掌中輕
十年一覺揚州夢 博得靑樓薄倖名
<赤壁>
折戟沈沙鐵未消 自將磨洗認前朝
東風不與周郞便 銅雀臺深鎖二喬
<將赴吳興登樂遊原一絕>
淸時有味是無能 閑愛孤雲靜愛僧
慾把一麾江海去 樂遊原上望昭陵
栗香宮島誠一郞先生筆草堂春日咏懷 筆者藏
棲遲足樂衡門下 詩句漫從枕上探
冷暖人情隨境見 酸鹹世味歷年諳
當階泉水流淸淺 隔竹桃花綻兩三
一夢華胥春晝永 學言鸚鵡語窻南
羽皋黑田淸隆先生筆書柬:明治二十五年二月六日付 筆者藏
岸踏玉章の趣敬承候然は先夜尊來の折御懇願の一條卽ち御許容啻今態々御持せ御惠與被成下誠に鳴謝の至に不堪實に生が赤心全く御高作の誠意の通にて其當時を述懷すれば甚た感激の次第に御坐候取敢す乍略儀書中を以て萬謝申上候書餘鳳眉に讓候此旨早々奉報
二伸乍末行一昨朝來降雪正に豐年の瑞祥御垂示の通御同感慶賀の至に候扨又先夜云々御挨拶被成下生こそ大酩酊御失禮申上候んと痛入次第御容免願上候也
羽皋黑田淸隆先生筆書柬:明治二十五年一月十九日付 筆者藏
拜啟未首共に何とも申上樣無御坐御沙汰御失禮平に御容免被下度刻下猛寒の侯彌御淸穆被爲揃奉賀候然は曾つて山縣公へ遣す詩願上正に忘却實に汗顏の至全く耄碌の然しむる所ならん哉重疊恐入候へ共御氣の程奉伏冀奉候此段早早得貴意候敬具
尙々副し通拙筆不文平に御容捨願上候荊妻ゟ別けて令夫人へよろしく申出候以上
二伸乍末行光陰矢の如く故勝伯最早一周年忌と罷成只々血淚に咽ぶのみに御坐候也
兩心相結不相離 事業由來貴見機
一語囑君君善記 廻天志在建皇基
丁卯八月贈山縣狂介君